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写真

  • jille8jiji
  • 2017年10月29日
  • 読了時間: 2分

更新日:2020年10月12日

20年以上前に撮ったフィルム写真が出てきた。

実家周辺。いつも家の犬を連れて散歩をしていた川べりの風景。

サイケな家庭環境や思春期というものが見事に混ざり合い、

辛いことも多かった十代の自分がファインダー越しに見た風景。

そしてそんな自分がシャッターを押し、切り取った風景。

自宅から歩いて2~3分の川べりにある家(確か牛を数頭飼っていたような記憶がある)の敷地に小さな木蓮が植えられていた。

植えられたばかりの不安定な佇まいの中でも凛と花は咲き、

そして散っている白い花びらが印象的なこの風景を、当時の私はどんな想いで撮ったのだろう。

今この場所はどのようになっているのか、

木蓮は大きく成長しキレイな花を咲かせているだろうか?

今度帰省したら見に行ってみよう。

うちの近くの魚屋さんによく買い物に来ていたおばあさんとわんこ。

押し車に犬のリードを結び付けてゆっくり進むおばあさんと、

走りたくて走りたくて全力でリードを引っ張る犬の姿を度々目にしていた。

もうきっとおばあさんもわんこもこの世にはいないだろう。

でも確かに存在した二人の日々、二つの命。

日常と言うかけがえのない時間が、この一枚のなかに流れているような気がする。

下校時間、通学路、賑やかな時間帯がそこにはあった。

幼い頃に近所の男の子たちと遊んだ川は今はもう子供の遊び場ではないようで、

実家に帰るたび川はいつもひっそりと流れている。

私の故郷は本当に静かになってしまった。

子供の笑い声はこの町の宝…その想いは年齢を重ねるにつれ深い皺のように確かな重みを増している。

近所を歩いていたら赤ちゃんを毛布にくるんだおじいさんが立っていた。

これはもうカメラを持っていたら誰でも撮らずにはいられない出会いなんじゃないだろか。

この写真のどこを見ても温もりしか存在しない。

暖かさは人に伝染し、冷たさもまた伝染する。

改めて温もりの連鎖をイメージしながら生きていきたいと思った。

写真の静止(せいし)はどちらかというと生死(せいし)として生と死を含み、

不確かな記憶や美しい想い出、

止まったままの永遠性と刹那的な陰影が一枚の写真をセンチメンタルなものにしているのかもしれない。

ああ、昔の日記を読む以上に、撮った写真はとても赤裸々だ。

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