戦争
- jille8jiji
- 2017年8月15日
- 読了時間: 5分
更新日:2020年10月12日
映画「野火」
第二次大戦末期フィリピン・レイテ島のジャングルで、日本兵士が地獄を彷徨う。
爆発によって脳みそが吹き飛び、内臓が大地に散らばる。
死ぬか生きるか。
食うか食われるか。
観る者へ真っ直ぐに強くトラウマを刻みつける映画だ。
戦争をテーマとした映画に感動や家族愛、
散りゆく命への賛美など描かれる必要があるのだろうか?と以前から思ってきた私にとって、
この映画の血なまぐささ「もうこんなもの観たくない」と思わせる描写の連続は、
この時代を生きる私達が観るべき《戦争映画》だと感じた。
※(レイテ戦では参加した日本兵の97%にあたる約8万人が戦死したと言われている。
レイテ島北部で祖父を日本兵に殺されたというフィリピン人の男性は「戦争中、日本兵はフィリピン人を殺し、フィリピン人は日本兵を殺しました。
お互いに殺しあうことが自然な時代、それが戦争というものです。戦争が終わった今では日本人を恨んではいません」と語っている)「ドキュメント太平洋戦争 踏みにじられた南の島 レイテ・フィリピン」
塚本監督は
「自分がやるべきは、戦争を加害者の目線で描くこと。戦場で殺されないようにするには相手を殺さなければならない。
それが戦争なのだっていうことを描かなければという思いがずっとあったんですね」と言っている。
昭和20年8月15日、ラジオから玉音放送が流れた(玉音放送 原盤音声 )
八月の猛暑の中、当時も聞き取りにくかったであろう玉音放送を、国民はどのような思いで聞いていたのだろうか。
私たちはもはや想像することしかできない。
どのような苦しみを、どのような痛みを、どのような思いを…と。
私達はいつまでも想像し続けなくてはいけない。
子供達の未来を創造するために、ヒロイズムにごまかされないように、
私達は過去の惨たらしい出来事を、その背景を、もっともっと想像していかなくてはいけない。
=戦場= 花森安治
〈戦場〉は いつでも 海の向うにあった 海の向うの ずっととおい 手のとどかないところにあった 学校で習った地図を ひろげてみても 心のなかの〈戦場〉は いつでも それよりもっととおくの 海の向うにあった
ここは 〈戦場〉ではなかった ここでは みんな 〈じぶんの家〉で暮していた すこしの豆粕と大豆と どんぐりの粉を食べ 垢だらけのモンペを着て 夜が明けると 血眼になって働きまわり 日が暮れると そのまま眠った ここは〈戦場〉ではなかった
海の向うの 心のなかの〈戦場〉では 泥水と 疲労と 炎天と 飢餓と 死と そのなかを 砲弾が 銃弾が 爆弾が つんざき 唸り 炸裂していた
〈戦場〉と ここの間に 海があった 兵隊たちは 死ななければ その〈海〉をこえて ここへは 帰ってこられなかった
いま その〈海〉をひきさいて 数百数千の爆撃機が ここの上空に 殺到している
夜が明けた ここは どこか わからない 見わたすかぎり 瓦礫がつづき ところどころ 余燼が 白く煙を上げて くすぶっている 異様な 吐き気のする臭いが 立ちこめている うだるような風が ゆるく 吹いていた
しかし ここは 〈戦場〉ではなかった この風景は 単なる〈焼け跡〉にすぎなかった ここで死んでいる人たちを だれも 〈戦死者〉とは呼ばなかった この気だるい風景のなかを動いている人たちは 正式には 単に〈罹災者〉であった それだけであった
はだしである 負われている子もふくめて この6人が 6人とも はだしであり 6人が6人とも こどもである おそらく 兄妹であろう 父親は 出征中だろうか 母親は 逃げおくれたのだろうか
持てるだけの物を持ち 6人が寄りそって 一言もいわないで だまって 焼けた舗道を 歩いてゆく どこからきて どこへゆくのか だれも知らないし だれも知ろうとしない

しかし ここは〈戦場〉ではない ありふれた〈焼け跡〉の ありふれた風景の 一つにすぎないのである
あの音を どれだけ 聞いたろう どれだけ聞いても 慣れることは なかった
聞くたびに 背筋が きいんとなった
6秒吹鳴 3秒休止 6秒吹鳴 3秒休止 それの10回くりかえし 空襲警報発令
あの夜にかぎって 空襲警報が鳴らなかった 敵が第一弾を投下して 7分も経って 空襲警報が鳴ったとき 東京の下町は もう まわりが ぐるっと 燃え上がっていた
まず まわりを焼いて 脱出口を全部ふさいで それから その中を 碁盤目に 一つずつ 焼いていった 1平方メートル当り すくなくとも3発以上 という焼夷弾 〈みなごろしの爆撃〉
3月10日午前0時8分から 午前2時37分まで 149分間に 死者8万8千7百93名 負傷者11万3千62名 この数字は 広島、長崎を上まわる
ここを 単に〈焼け跡〉 とよんでよいのか ここで死に ここで傷つき 家を焼かれた人たちを ただ〈罹災者〉で 片づけてよいのか
ここが みんなの町が 〈戦場〉だった こここそ 今度の戦争で もっとも凄惨苛烈な 〈戦場〉だった
とにかく 生きていた 生きているということは 呼吸をしている ということだった それでも とにかく 生きていた
どこもかしこも 白茶けていた 生きていた とはおもっても 生きていたのが幸せか 死んだほうが幸せか よくわからなかった
気がついたら 男の下駄を はいていた その下駄のひととは あの焔のなかで はぐれたままであった 朝から その人を探して 歩きまわった たくさんの人が 死んでいた 誰が誰やら 男と女の 区別さえ つかなかった
それでも やはり 見てあるいた
生きていてほしい とおもった しかし じぶんは どうして生きていけばよいのか わからなかった
どこかで 乾パンをくれるという
ことを聞いた とりあえず そのほうへ 歩いていってみようと おもった
いま考えると この〈戦場〉で死んだ人の遺族に 国家が補償したのは その乾パン一包みだけだったような 気がする
お父さん 少年が そう叫んで 号泣した あちらからこちらから 嗚咽の声が洩れた
戦争の終わった日 8月15日 靖国神社の境内
海の向うの〈戦場〉で死んだ 父の 夫の 息子の 兄弟の その死が なんの意味もなかった そのおもいが 胸のうちをかきむしり 号泣となって
噴き上げた
しかし ここの この〈戦場〉で 死んでいった人たち その死については どこに向って 泣けばよいのか
その日 日本列島は 晴れであった。
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